昭和47年01月26日
 御神訓

家柄人柄をあらたむるより互に人情柄を改めよ

特に結婚等の場合には、あちらは家柄があるとか、あそこは、筋が良いの悪いのと、例えば忌まわしい病人が居ったり、又は、先祖にそうゆう忌まわしいことがあったりいたしますともうそれは筋が悪い家柄が悪いあちらはライ病筋とかあちらは肺病筋とか云った様な事を申します。あちらは気違い筋ばいと云うことを申します。家柄でもそうです。あちらは皆は士族であった、または華族様だとか、と云うような事でいわゆる家柄良いの家柄が悪いのと云う事を申します。成程それもあらためると云う事も大事でございますけれどもそれよりももっと大事なのは人情がらをあらためよとこうおっしゃられとります。人情柄をあらためて行かなければいけません。まあ例えて申しますと私の家では、家柄がひとつも良いと思いません。人柄が良いとも一つも思いません、本当に忌まわしい病人があったり、又は、家柄というては、それこそ家柄らしい家柄というようなものは何もありません。けれども私のほうではおかげと頂きました。
信心を頂いとるおかげで次第次第に人情柄が改まって参りました。人情柄が改まってきましたら段々に私はおかげを頂くと思うです。例えて申しますと九州名門と云はれる小倉とか、甘木とか、久留米福岡あたりは、特に九州きっての名門であります。いわゆる家柄が出来られたというのは家は士分であった、家はこうであったというのではなくてどうであったかはわかりませんけれど段々信心させていただくことによって所謂人柄が変ってきた、人情柄が変ってきた変ってまいりました所謂九州の所謂名門と云われる家柄が段々出来てこられた様にです合楽でも同じ事である、決して家柄良いとも人柄良いとも思いません。ですけれど段々おかげを頂いて信心をさして頂くようになりますと嫌な病人もできんようになり健康のおかげを頂くようになり、同時に人情柄を改まって参りましたら決して合楽が名門とは思いませんけれども家は九州切っての名門ちゃある、教団切っての名門と云えば金光家がいちばんでしょうけれどもね
家は金光家と親戚関係になっとる皆様とできておる事実があるでしょうが、真一時しよると合楽は名門という事になりますよ。必ずなります。つい2、30年前までは名門ともいわれなかったし家柄がよいとも人柄が良いとも云われなかった、親戚のなかに頭のおかしくなったのもおれば肺病でなくなったつい私の妹の主人なんかは肺病で亡くなっておるですからそうゆう家柄ですけれどもそうゆう人筋ですけれどもそれが段々に人情柄をあらためておりましたら、健康の上にもおかげを頂きそれから段々家柄人筋となって、おかげを頂いて行けるのが私は信心だと思うのです。どんなに家柄が良いといっても零落して仕舞ったちゃつまらんでしょう、どんな名門だといったて、私の知った人のところに古庄屋というのがあります、今云うならば零落しておられますけれど、やっぱり庄屋さんの核というものをいつも元庄屋というけれども人はそれを元庄屋というて大事にするわけではあません。ですからどうでも私どもが人情柄をあらためて行く私どもが信心によって私どもの心の状態というものが変っていくおかげを頂いていくと云うこと、天地の親神様の悲願でもあり願いでもあるところの人間総氏子がすべての素晴らしい家柄に、すべての素晴らしい人情柄に改まって行くと云うことをどのようにか願いとなさっていることであろうか、そこに和賀心時代を創るというような運動が合楽からそうゆう運動を起こさなければならない程しの神の願いが合楽にかけておられるのだと私はそう信じておる私は本当にもう本当に有難いと思うことはね、信心しておるから有難いというのではなくて、信心の稽古をさせていて頂く事が有難いのです。どのくらい信心しておる人があるかわからんけど、信心しとるけん有難いのは特に御利益をいただいとるけん有難いのであろうがそげなことはないです。どうゆような場合であっても、どの様に家柄なくてもどのように人筋の悪い家に生まれ合わせても、信心の稽古をさせていただくことによって人情柄が改まって来るに従ってです、おかげが受けて行かれる道になってです。お互いが精進させて頂いておることが有難いのである。ですから信心をしよって合楽に縁を頂いとってもね信心の稽古をしなかったらそれはおかげは受けましょうけどそれは大した値打ちのある事ではないのです。合楽にご縁を頂いて日々信心の稽古をさせて頂いておるその信心修行に取り組ませていただいておることが有難いのです。又、有難いと云えるおかげが頂けるのです。第一腹をたてんで済む様になり、不平不満を云わんで済む様になりもうこれだけでも有難いもうそれは本当に有難い、私昨日お風呂に入らせて頂いて、私はいつも脱衣場のところに小さいお神酒瓶を置いてあるそしてその裸になったときに、お神酒を頂くのです。上がってからもう二、三日からになっておる家内にもう四日めのお神酒は切れとるとよ、切れとるとよと云っとるけども一向に取り替えてくれない、それで昨日、いくら云うちゃったわからんというような気がちょっとしたわけですね、けどこげな心では馬鹿らしかと思いますよね、いくら云うちゃった云う事を聞かんと思う心はもう相手を責めておる心ですからね、そこで私の心の中にいつもそのわが心、和賀心と云うのがございますから人が例えば三日忘れようが四日忘れとろうがいくらいっても云う事を聞かんねと云うのではなくてお母さん、お母さんお神酒がないよとそれは何にも心です。あ-それは済みませんとそれは食堂におりました、ばってんもうそれこそ飛んできてから「 済みません」 何遍も云われてからと云うてもう気分のよいこと、ところがね、ゆうべ大変おかげを頂いたことがある。そのお神酒をつけて頂いてからいくらお神酒だからというて御神米だからというて不平不足を云うて御神米をいただいてお神酒さんをつけておかげの頂けるはずはないというてね昨日ははっきり体験から頂いた事はございませんでした。それは不平不足云うてもそれはお神酒さんのおかげ御神米のおかげというのはありますよ、けれども御信心を頂く私どもがお神酒さんを頂く御神米を頂くのにです、お前ばっかりいくら云うても    くれんでも、あ-すんませんというてたり思ったりしてお神酒さんつけたり御神米を頂けんでは、私が体験した様な体験は生まれていない、素晴らしいですね信心ちゃ限りなく不平をいわんで済む、じゃない思わんで済む様になると云うことはこれはもうどげんなるじゃろうかと云うくらい、有難いです。云うから先は、それから稽古させて頂かんと稽古させて頂きやぁ必ず上達することだけは間違いないと確信するからこれからどげなおかげ頂くじゃろかと、楽しゅうて楽しゅうてたまらんです。その様にして人情柄は変って行くのです。私と家内の仲にでも私と子供たちとの仲にでもですから有難いとこう思うこと、例えば口で云うたりそうじゃないですね、けれども口にでもここにお参りになる信者さん同志にお早ようございますと挨拶を交わすことは気持ちの良いことです。けども挨拶を交わさんでも通い合うものになったらもっと素晴らしいでしょう。私方の嫁は朝、私がこちらへ下りますとお父さん、お早ようございますと必ず云うのです。お早ようとこうゆう、成程気分が良いです。ところがですね、まん僅かの間ですけれどもお早よう、お早ようございますと云わんでもそれ以上のものと通い合うと感じております今、家の中ではね、けれども云わんばならんと云うことは、もう、これはいけません。もう云わんでも融け合うて行けるもの、有難いものか交い合うもの、夫婦でも親子でも、でないといざ云うときに間に合はんです。忙しうてたまらんでも今日はお早よう云うとらんけんと思うてからそこんにきのなんとも云へん有難いもののね、本当に人情柄を改め合うてゆく程素晴らしい事はないです。そこで御理解第二十六節を開いて見てください。
 御理解二十六節
信心に連れはいらぬ、一人信心背よ。信心に連れが要れば死ぬるにも連れが要ろうが、みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。
もう、何とか彼とも云はれん程素晴らしい教えですね。日に日に生きるが信心なのだと、本当に今日一日もね、より有難い一日でありたいともう願はなければおられません。願うばかりにはやはり、本気で今日一日有意義なというよりも有難いと云うことなのですね。云うなら、有難いと云う一日云う一日でありたいと願うならばそんなら有難い一日にあるんのに私はどうあったらよいかと云う事になってくるわけです。ただ、願っただけじゃつまらん今日一日が有り難い。ところが人間というものはそうばっかりちはいけん、やはり照ったり曇ったりと云うことがございます。特に女の方はこれが非常にひどいですね生からみたらしござったがちゃんと下うつむいてぷ-っとしてござるもう変っとる、それは男でも昨日そうゆうお届けが続いて二人あった。今もう何日間もぷ-っとしとる自分でわかっていますからどうにもできないと云われるのです。日頃なんのために教えを頂いておるか、しかもたったこの位の事がこの様に引っかうて、自分が悲しい思いをせなければならん事が本当に情け無いところ、二人目のお取り次ぎさせて頂く時でした。いはばそのことをここで聞かせて頂きながら頂かせてもらうことはね、黒繻子、黒の繻子に金銀で金糸銀糸で刺繍をしておられるところを頂いた。それも淋しい秋のですね、それを黒の繻子に金糸銀糸で刺繍をしておるところを頂きました。信心とは有り難いです。いろんなセンチメンタルにかかる事がありますよね、お互いけれどもそうゆう時でも例えば三日でも四日でも どうして自分はこの様にです、この様な事が気になるだろうか、晴れ晴れせんであろうかとやはり心は向けておるですですからそうゆうくらい思いをする時でなからなければ、出来ない刺繍か出来ていく訳です。黒繻子と云う事は私は苦労と思う。その方が心の中に悩んでおられることだと思うけどもそうゆう心の中に苦労がです、その苦労のおかげで普通苦労でなければ出来ない。例えば今日は雨が降る雨が降ってや困るけれども、けど雨が降るからじっとしとっても勿体無いならというて雨の降る日でなからんと出来ない仕事をしたら思い掛けかけない仕事が出来た捗ったという様なもんです。いうなら信心でとはそれだと思うです。ですから問題は、その暗い心やら嫌な問題を人に持っていったり他に持って行ったりでなくて、やはり神様へ持って行けれるという事が信心の稽古です。一人ひそかに信心せよ、そうゆう時こそ一人ひそかに信心が出来る時なのです。お互い本当に今日一日をです、有り難い一日であります様にと云う祈りと願いに立たなければならん。竜安寺のお手洗いではないですけど、只、悟れ足るを知るとある刻ってあります。これは所謂褌の精神でしょうね、もう現在この身このままでです何不平不足もないのだと云うのです。
 そうゆ様にど様な環境の中にあっても不平をいはんで済む不足といはんで済むと云う事は有り難いです、要諦は風が持って来る木の葉かなと、まあ木の葉に位ならおかげでしょうね、自然にはそうゆう一つの摂理と云ったものがですから不平不足といはんでですおると最小限度ではあるでも人間が生きていく為に必要なものは集まってくるようになっとるとです。世の中そうゆうシステムがあるです、ところが金光教の信心はね、そのくらいのことでは出来んのです。金光教の信心はなのです私はそう思うですいや願はなければ神様は喜んで下さらない神様なのです親神様ですから子供があれが欲しいと思ったちゃ親の顔見てから言いだし切らんと言う様な、親がむしろ思う位です。
 それこそ或る場合にはあまえてかまわない、或る場合には無理をいうてでもかまわんやれるものならやりたいのが親心、けれどもそれはやれんぞ云うものは仕方がない。神様は限りなくもってござるのだから私どもは甘えてでも無理を云うてでも願はなければならん。その願う心が和賀心でなからんといかんと云うのです。只、悟れ只在るを知ると云うなくてです。不平を云はんで済む、不足も云はんで済む、けれども痛ければ痛いと云い痒ければ痒いと願って云う事が御道の信心日に日に生きるか信心とは、そうゆう事だと私は思うです。生きるのが信心、生きていく為に必要なものであるならばそれを願って行くと云うこと、云うなら願って願い抜いて行くということ、その願う根本の心がです、不平を言はんで済む不足を言はんで済む、そうゆう心の状態を以ってですいよいよ願って行かねばならん。昨日、婦人会の新年会宴会があった。どうかいっちょ親先生大きなおかげば いっちょ頂かして下さいと云われるのです。ある人が    せておりましたが  あんたがおしゃべりば止むるとおかげ頂くよと云うてから、ちっとばかりお酒のほうがまわっておんなはったからおしゃべりしよんなはった、あんたがおしゃべり止むるとち、ゆうちかりけどその人がおおきなおかげを頂きたいと云う願いは切るのですよ。飲んでからいうちょるのではない、本当にある、そして私だけのためではない、それこそお役に立ちたい立ちたいの一念がね、今の様ではお役に立てません。
 どうぞおかげも大きな御用とさして頂きたいためには大きな力を頂かなければならん、大きなおかげを頂かねばならんと、願っとるわけです。
 どうでもそういう願いに立たねばいけんです。大きなお役に立ちたい大きな御用に立ちたい自分で贅沢しようとは思いません。けれども信心さして頂いて神様に喜んで頂ける、お役に立ちたいの一念をもやすところからまた大きなおかげも頂きたいという事に、願いがかけられてくるようになる。そこでです、願いがかけられると来れば来る様にです、成程、自分はしゃべりすぎるとお気づきいただいたら、本気でしゃべらんで済む。修行に改まって行かなければ、いわゆる人情柄が変る、ついてこなければならん。あちらの奥さんはお喋りやけんで、やろうと思いよったばってん、やらんと、それで縁談がくずれるのもわからんですけんね、家を云うたら、だからあの人はえらいこと云うと思いましたがやっぱり神様からですよあんたが口を謹んだらおかげ頂くと、あ-本当、あの人の言わっしゃたことは、神様の言わしゃったこととして頂いてです。本当に改まっていくというような、生き方が人情柄が改まって行く事になる。 今日は、私はここんところの御神訓を頂いてもらってですね、本当に有り難いとこの御神訓を今日ほど有り難いと思うたことはない。。成程、お道の信心はね、成程、家柄も良くなければならん、さあ息子に嫁を貰うと思うならやはり家柄やら又本当、筋の悪かとやら居ってだんなかじゃろうかと思うごとあるです。けどもそうゆう事を言わんでも済む、例えば息子がですよ、あんまりよかとこのでない、嫁を好きになった、あそこはいかんてなんて言わんで息子が好きならば、貰ってやる。人情柄を改めてさえ行けば、こっちも助かりやぁ向こうも助かる。こういう素晴らしい教えをこうゆう素晴らしく感じた事は、始めてでした。
 人情柄を改めて、ならば、私が頂いておる少しばかりのおかげを見てくださってです、椛目の時代に、家柄が良かったとか人柄が良かったとか思いません。いやむしろ悪かった。それが段々おかげを頂いて人情柄を改めて参っておりましたら、これは、合楽教会でも教団きっての名門と云われる様になるだろうと、なろだろうと云われる様になりつつあると云う事実、人柄の上に於てもおかげを頂いて皆が元気にならさせて貰って忌まわしい病気は、根が切れんのかと思われる程しにおかげを頂いていると云うこと。
 問題は、信心なんだ、家柄も云う事はいらん、人筋云う事はいらん。人情柄を改めて行かなければならん、信心しとるから有り難いのじゃない、信心の稽古をさせて頂く事だから有り難い。信心の稽古さして頂くから、人情柄が改まってゆくのであるから、家柄も良くなって行く、人柄も勿論、良くなって行く、おかげが受けられる様になって行くのですね。  どうぞ